噛み切れない想い 鷲田清一著 パートⅢ |
・ぎりぎりの場面で口をついて出てくるのは、つるつるの表面を滑る言葉ばかり。噛みきれない言葉が聞こえない。聞きたいのはむしろ、(堀江敏幸さんの言葉を借りれば)表面にこげつくような言葉なのに。
・他者からの干渉、他者への依存というのは、たしかに鬱陶しいものである。けれども、だからといってそれはただちに「不自由」を意味するものだろうか。他者への依存(見える、あるいは見えない)なしには、人は生きられないものである。「自立」ということを簡単に口にできるのも、個人の生活の世話、広義のケア・サーヴィスを金銭で買える社会にいるからだ。
・おざなりのデザインというのは、どこかひとを軽くあしらったところがある。「こんなものでいいと思いながら作られたものは、それを手にする人の存在を否定する」ち」いうのである。
人間は「あなたが大切な存在で、生きている価値がある」というメッセージを探し求めている生きものだ。・・・「手にとった瞬間にモノを通じて自分が大事にされていると感じられる」もの、それがよいデザインだというのだ。
・なにかを変えるには、カタチを変えることが大事だ。「業務改革」というのは、ひとびとがこれまでよかれと思ったきたものを変えることだから、問題の根が深くてなかなか進まない。そういうときに、たとえば机の配置を変える、上司も部下もおたがいを「さん」づけで呼び合う、というふうに、ちょっとカタチを変えるだけで、「改革」が一気に進むことがある。
・職務とは別に「ひと」としてまずなすべきことがあるのにもかかわらず、あえて職務に徹しなければならない、そのいうディレンマがあるからこそ、ひとは職業倫理というものを考えてきたはずである。報道記者も野次馬も、「空気がよめない」のではなく。「倫理」という名の品位を欠いていた。まなざしの欲望だけが暴走していた。
・バラエティ番組だと、笑わす者も笑う者も画面の中にいる。これは番組のつくり方としてはとても下手なやり方だとおもう。
・死の体験のもっとも基本的な形は、じぶにとってその存在が重要であったいひとに「死なれる」という体験である。そう、受動的な体験。
・関西のひとは待つより先に挑発する、応答をうながす。それが不思議に、被災したひとびとの救いにつながった。
・たこ八郎のなぞめいた言葉が、彼のお墓には刻まれている。「めいわくをかけてくれてありがとう」。
なぜ、「ごめんなさい」でなくて「ありがとう」なのか。このことの意味をじっくり問うことが、ケア論のコアにつながると、わたしは考えている。