走ることについて語るときに僕の語ること その4 村上春樹 |
・--飛行機に乗ってわざわざ日本の北端にまでやってきたのだ。どんな走るスピードが落ちたとしても、歩くわけにはいかない。それがルールだ。もし自分で決めたルールを一度でも破ったら、この先更にたくさんのルールを破ることになるだろうし、そうなったらこのレースを完走することはおそらくむずかしくなる。
・こうして我慢に我慢を重ねて走り続けているうちに、75キロのあたりで何かがすうっと抜けた。そういう感覚があった。「抜ける」という以外にうまい表現を思いつけない。・・・それで、「ああ、これで抜けたんだな」とそのまま納得した。理屈や経過についてはよくわからないものの、とにかく「抜けた」という事実だけは納得できた。それからあとはとくに何も考えることはなかった。生じた流れを、自動的にたどり続けるだけでいい。そこに身を任せれば、何かの力が僕を自然に前に押し出してくれた。
・半日ぶりにやっと地面の座り込み、タオルで汗を拭き、水を思いきり飲み、シューズの紐をほどき、あたりがゆっくりと暮れていく中で、入念に足首のストレッチをする。誇りというほどたいしたものではないが、それなりの達成感のようなものが、このあたりでやっと思いついたみたいに胸にこみ上げてくる。それは「リスキーなものを進んで引き受け、そえをなんとか乗り越えていくだけの力が、自分の中にもまだあったんだ」という個人的な喜びであり、安堵だった。
・タイムは問題ではない。今となっては、どれだけ努力したところで、おそらく昔と同じような走り方はできないだろう。その事実を進んで受けようと思う。あまり愉快なこととは言いがたいが、それが年を取るということなのだ。・・・若死にをまぬがれた人間には、その特典として確実に老いていくありがたい権利があたえられる、肉体の減衰という栄誉が待っている。その事実を受容し、それに慣れなくてはならない。
大事なのは時間と競争することではない。どのくらいの充足感を持って42キロを走り終えられるか、どのくらい自分自身を楽しむことができるか、おそらくそれが、これから先より大きな意味をもってくるだろう。
村上さんって、ごくごく真っ当な考え方の方なんですね・・・
作家的な不健康さが、微塵もない感じですね。