熊楠のエコ100年 |
文系理系の枠を超えた知の巨人南方熊楠が、神社合祀政策反対に立ち上がったのは1909(明治42)年のことだ。9月27日、和歌山県紀南地方の地元紙「牟婁新報」への投稿で火ぶたを切った。
神社を覆う森には動植物もいれば、熊楠が愛した粘菌もいる。参新な生き物が支え合って暮らす小宇宙だ。神社の併部が進むと、その生態系(エコシステム)が小さな神社やぼこらの周辺では壊滅してしまうーそんな危機感があった。
生態系に着眼する環境保護運動の先駆けだったといえよう。それだけではない。熊楠は、支援を海外の学者に求めようとした。
これは、戯学者の暫国男が「全牒外国の学者など、他国の領土に生存する生物につきて何の要求樺ありや」 (飯倉照平締『柳田国男南方熊楠往復書簡集』平凡社)とたしなめるなど、有力知識人の反発に遭って断念するのだが、負けてばかりはいない。次の時代を見通して「後日にならば何のこともなく思う人も多かりなん」 (同上)と書いている。
「自然破壊という地球上共通の問題に対して、この国の世論に訴えて阻止できないならば、世界の世論をおこしてこれを押しとどめようとした」 (鶴見和子『南方熊楠』講談社)のである。
国際NGOが、地球環境を守るたたかいの最前線に立つ。そんな時代の原点が
100年前の紀州にあった。(八尾関章)