松尾芭蕉 日経新聞より |
有名な病中吟は辞世のようにも読める。門人たちへの遺言状には、「俳譜は老後の楽しみと申すこと、いよいよ御忘れあるまじく候」とあった。
この「老後の楽しみ」は晩年の芭蕉が好んで使い、俳譜の代名詞となった言葉だ。文字通りに受け取っても良いが、基底に「老い」に関する人生観がある。
芭蕉は前年、その辺りを俳文「閉関之説」に記した。
「人生七十を稀なりとして、身を盛りなることは、わづかに二十余年なり。初めの老いの来れること、一夜の夢のごとし。五十年、六十年の齢かたぶくより、浅まもっ覆れ…⊥
人生五十年の時代だ。「初めの老い(初老)」は四十歳を指す。その後人老後)の衰えはあきれるほど。それゆえ、「ただ利害を破却し、老若を忘れて、閑にならんこそ、老いの楽しみとはいうぺけれ」。「芭蕉俳文集」 (堀切実編注)によると、芭蕉はこのくだりで「老荘思想に基づく無為にして清閑の境地の積極的な意義」を説いた。
芭蕉は三十代から「翁」と呼ばれている。例えば延宝八年(一六八〇彗、高弟の服部嵐雪は三十七歳の芭蕉を「桃翁」と呼んでいる。そうした点から、「老化現象が顕著だった」という現代の医師による診断(中西啓「芭蕉カルテ」)もある。
30代から老いを自覚、そのころの芭蕉の句に、「雪の朝独り干鮭を噛得たり」。貧寒を詠んだ句だが、「噛得たり」という下五が印象的だ。「まだ歯は丈夫だ」と言う芭蕉はもう若くはない。ちなみに、これ以前の芭蕉の発句で、老いをうかがわせるものは見当たらない。
「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」。延宝八年秋の句だ。この枯淡の境地には、折からの老いの自覚、あるいはその予感が働いていたと考えたい。そして、芭蕉はその冬、江戸の日本橋から深川の草庵に転居した。(編集委員 牧内岩夫)
ばしょう一六四四-一六九四年。俳誰師。伊賀上野(三重県)に生まれる。武家奉公を経て俳譜に志し、江戸に下る。俳藷の芸術性を高め、文学の一ジャンルとして確立。俳句のほか「おくのはそ道」など紀行文が読み継がれている。わび、さび、しおり、ほそみ、かるみなどを重んじた閑寂の美学は日本文化全般に影響を及ぼした。
寿命は伸びたものですが、さて、その中身はどうなのであろうか?